オシムが語る、日本人のウィークポイント

このあいだのKindleセール本でなぜか99円になっていると紹介した、考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21 A 114)を読み終えました。

やっぱり期間限定のセールだったようで、今は通常価格に戻ってしまっています。危なかった・・・。

この本は元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシム氏が南アフリカワールドカップ直前に書いた本のようです。
サッカーの話がメインですが、「日本人の組織で一緒に戦った外国人から見た日本人」が書かれているのでサッカーの話がわからなくても楽しめる本です。

サッカーの日本代表の課題を通じて今の「日本人の課題」が見えてくる。そんな印象を受けました。

オシム監督が日本サッカーに求めたもの

まずはここからですね。外国人監督が目指したのはどこかを模倣するサッカーではなく、日本人のサッカーをすること。

私が、日本代表監督時代にやろうとしたのは、日本人の特性を活かした「日本人のサッカー」である。そして口をすっぱくして「自分で考えろ」「考えて走れ」と言い続けた。
ピッチで指示を待ち続けていたら、試合には負けてしまう。私が望んだのは、対戦相手のことを考え、敵にとって危険な地帯に進入していくプレーだ。
リスクを負わないチャレンジはない。そういう日本人に欠けている哲学の部分を埋めたいと考えていた。

オシム監督が就任して日本代表の試合しか見ない僕には、知らない選手がどんどん抜擢されて、ガンガン走るプレースタイルでビックリしたし、観ているこっちも面白かったのを覚えています。明らかにいままでの代表チームとは違いましたね。

オシム監督が脳梗塞で倒れなければ今の代表はどうなっていたのか?ちょっと気になるところです。

戦うための準備

仕事でも、どんなスポーツにも通じる部分はあると思う。

相手チームの選手、戦術のすべてを過去において分析し、あらゆる選手の戦術の長所と短所を並べ、その短所を徹底的に抑える。練習では、できる限り、そういう状況をパーフェクトに作り出して、シュミレーションを繰り返す。相手が嫌なことは何かを知り、徹底して、それをやるのだ。

自分たちには「何ができて、何ができないか」。もしくは相手が「何ができて、何ができないか」。それらを冷静に、客観的に分析することが必要なのだ。

私は「自分たちのサッカーをするだけです。相手がどうであろうが関係ありません」という姿勢は好きではない。これは相手を過少評価しているということである。
相手をリスペクトしなければならないし、相手が自分たちをどうやって危険な状況に追いつめてくるのかを知らなければならない。自分のチームに誠実にならなければならないし、相手に対しても誠実になることが不可欠なのだ。

相手の強みと弱みを分析し、相手の弱みをつき、強みを潰す。
文章の途中に「客観的に」という言葉が何度かでてくる。「こいつマジすげー」とかそんな感情は必要ないという事。

相手がボールを持ったらどんなプレーをしてくるのか。それを客観的に分析することが大事。

責任を持つ

日本人選手は、しばしば、こういうことを口にする。
「僕たちには、これがない。あれがない。彼がいない。相手みたいなエースがいない。」責任転嫁である。だから、現状のような結果なのだ。

「日本人には責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。
例えば自分のマークする選手だけを追って、それだけをやれば「後は知らない」「自分の責任ではない」と考える。ストライカーが「自分の守備範囲はセンターラインまでだから、そこまでボールを追えばいい」と限界を作ってしまう行為である。
ストライカーが、ディフェンスで仕事をしなかった結果、チームがゴールを奪われたら「僕の仕事ではない」「僕の責任ではない」と言い訳をする。だが、それでチームが敗れてしまえば、もはやサッカーではなくなるのだ。自己の限界などを取っ払い、「自分はできる」という自信を責任感に変えなければならない。

思わずギクッとしてしまった。
なんだろう。こうしたことはサッカーじゃなくてもよくあると思う。自分の仕事はここまで、ここからは自分の仕事ではない。

でもチームで仕事をしていたらどうだろう。全体が終わらなければ「その仕事は終わらない」。

勝手に「自分の仕事」と「他人の仕事」に線を引いても役にたたないこともあるってこと。
線を引かなければならないこともあるだろうが、それは「規律・決め事」としてチームで共有しておけばいい。ただすべての仕事を明確に仕分けることができないこともあるはず、その「グレーゾーン」に対してどう向き合うかってことだろう。

考える力をみにつける

日本人は自分で考える力が弱いと。ビジネスの現場でも良く言われているけど、オシム氏も同じ事を指摘している。

日本人は、長い時間ディシプリン(規律)生活を送ってきたせいか、サッカーでも決めごとがある状況下においては強い。例えば中澤と闘莉王を1セットとして置くと、センターディフェンス周辺の環境では滅法強い。だが、ここで順応、適応、すなわち「瞬時に考える」という条件が加わってくると、その頑強さにヒビが入ってしまうのである。
(中略)
確かに日本の子育ては「年長者を敬う」というディシプリンから始まる。
だが、それが、ある年齢を過ぎても、なお徹底されると「自分自身で考えることをやめる」ことを意味するようになる。いきすぎた教育とは人言を硬直させるものである。

日本の教育システムの問題でもあるのだろうが、日本の子供たちは創造力や独立心を伸ばすための自由をほとんど持っていないように感じる。子供たちは、先生やコーチによって常にコントロールされている。子供たちは、何かをやらなければいけないとき、もしくは何かをしようとするときに、必ず先生やコーチに質問をしている。
選手が「監督、僕は何をすればいいですか?」と、試合が始まっているのに数分ごとに聞いているのと同じことだ。
私が感じる限り、日本人には教師や上司の教えを疑うことなく守り、秩序を乱さない者が最も優秀であるという特有の価値観が備わっているようだ。
タイムアウトなど取れないサッカーにおいては「何をどうすればいいか」を、その置かれが局面ごとに自分で考えプレーする。それは人生に似ている。

まずは、自分のやり方でやってみる。こういう自己の意思力が重要なのだ。しかし、日本では子供の頃から他人に自らの進む道を依存する傾向が見られる。この時点で、すでにクリエイティビティを放棄し、誰かのコントロールに意思を委ねているのだ。ゆくゆくは、「自分はここまででいい」と自分に対しての限界を設定るような心理につながっていく。

自分で考え、何かを試さねば、バルセロナのようなチームは生まれない。バルセロナは、誰かを真似したからバルセロナになれたわけでなないのだ。

特にスポーツの世界では「自分で考える」ことを「年長者」は嫌う。
そしてたいていの「年長者」はこちらの意思に関係なく、自分の考えを押し付ける。

それに従わなければ、使ってすらもらえない。「絶対服従」がキーワード。

でも、それでは世界とは戦えない。帝国の支配下に存在するなら「使い捨てのコマ」で十分。
帝国に支配されたくなければ「特殊」な選手にならなければならない。

替えのきく選手ではダメ。
誰かの模倣では、誰かの代わりにしかならない。

代わりが嫌ならオリジナルになるしかない。そしてそれは選手個人としてだけではなく、チームとしてオリジナルを目指さないといけない。
なんてことを自分の仕事やスポーツに置き換えて読んだ見ると面白いと思います。


考えよ! ――なぜ日本人はリスクを冒さないのか? (角川oneテーマ21)

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